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あなたの酪農場のルーツは?

JOURNAL 2024.06.25

 Jミルクは2023年から「にほんの酪農・歴史さんぽ」と題したシリーズものの記事をウェブサイトに掲載しています。現在、▽北海道 十勝編▽北海道 函館・道南編▽京滋(京都・滋賀)地域編▽青森・岩手編、の四つを掲載中です。

 今回は、そのうちの北海道 函館・道南編を紹介します。

 下の放牧風景の写真は北海道七飯町です。この地域の酪農には、こんなルーツがあります。

 1873(明治6)年、北海道で初めてバターや粉乳などの乳製品製造が試みられたのが、この地だったのです。明治33年の資料(『北海道庁種畜場沿革史』の七重分場の部)に、こうあります。
 「牛乳は専ら仔牛の養育に供し、其の残余を以て乳酪、粉乳を製造せり、これを製乳の濫觴(らんしょう)となす」
 濫觴とは始まりのこと。では、なぜこの地だったのか。函館駐在のプロシア副領事の兄と、榎本武揚の取り決めで、幕末から農場開発に着手していたことが大きかったようです。それはつまり、歴史教科書に登場するような人物が、この地域の酪農の普及に関与していたということです。函館は港町で、当時すでに外国人が多く、乳製品の需要が大きかったことも関係しているでしょう。
(【北海道 函館・道南編】第2回 農業技術はここから~七飯~ https://www.j-milk.jp/knowledge/column/hakodate02.html 

 当時、酪農は今でいうベンチャービジネスのような位置付けだったと考えられ、ビジネスとしてだけでなく地域振興策としても新たな可能性を感じさせる分野でした。これは北海道に限らず、全国的にそうだったようです。明治生まれで、栃木県から北海道に移り住んだ酪農家は小学校4年生のとき、「牛を飼いたいが、牛は高くて買えないから一番先に鶏を飼って儲け、豚を飼い、その豚を売って儲けて牛を買い、牧場をやりたい」と作文につづっていたそうです。
(【北海道 函館・道南編】第8回 まちとミルクのものがたり~函館・八雲~ https://www.j-milk.jp/knowledge/column/hakodate08.html )

 もう一つ、当時の酪農家の闊達(かったつ)さ(?)を感じさせる話題をご紹介。
 1912(明治45)年の話です。この頃、関東・東北・関西・九州で大水害が立て続けに起こり、米価の急騰が続いていたようです。そんななか函館新聞に、次のような内容の「緊急広告」が載りました。
 「米価調節策」ならびに「函館繁栄策」として、「少なくとも毎日三度に一度は食パンと牛乳を召されたし」。それによって米の消費額を3分の1減らせ、時間の節約にもなる。ばかりか、荒れ地が畑や牧場になり、牛乳屋も救われる。何より、「牛乳は味美にして滋養豊富」、また「値最も廉なり」。
 この広告を出したのは、函館にあった「時任農場」。意見広告と見せて、商品をしっかりPRしており、したたかさを感じます。
(【北海道 函館・道南編】第3回 農場の痕跡を探す~函館・北斗~ https://www.j-milk.jp/knowledge/column/hakodate03.html )

 この三つめのエピソードに出てくる時任農場は、昭和に入ると、毎月今でいうニュースレターのようなものを出していました。発行された「月報」の一部が、図書館に所蔵されています。それを見ると、内科や小児科など病院・医院の広告が多数掲載されていて、牛乳が昭和に入ってもなお、滋養強壮のための医薬品に近い位置付けだったことを物語っていると思われます。

こうして地域の酪農乳業のルーツをたどると、興味深い発見がいくつも出てきます。今後、ほかの地域の歴史についても紹介していこうと思います。

PROFILE/ 筆者プロフィール

一般社団法人Jミルク

一般社団法人Jミルク

酪農・乳業に加え、牛乳販売店の団体など、計23の正会員、95の一般・特定賛助会員(個人を含む、2024年4月現在)でつくる業界団体です。おもに、生乳・牛乳乳製品の需給や生産流通の安定、牛乳乳製品の栄養や健康に関する啓発、学校給食などを通じた牛乳の飲用習慣の定着、国際機関との連携や情報交換、およびそれらの理解促進や広報などを行なっています。最近は、酪農乳業の歴史に関する資料の収集や調査なども行なっています。事務所は東京・お茶の水にあります。

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